気がついたら君は15歳になっていた。母親の都合であちこちのおうちに預けられ不安な幼少期だったと思う。学校も変わったけどピアノの学校だけは変わらなかったね。最初は嫌々通っていたピアノがいつしか君の世界の一部になっていた。
田舎の小学校で大半を過ごし、人として大切な事をそこで学べたね。一見まとまりのない個性が心を合わせたときになし得る人間の強さ。吹奏楽県大会で名前も知られていない、楽譜の読み方も知らない子供たちの小さな集団が、大きなハーモニーを会館中に響かせた。メンバーの一人が前日発熱でママを受診した。この子が抜けたら大変!って、皆の顔が思い浮かんだ。ママは祈るしかなかった。お医者でも最終的には心を込めるしか手段が無い。翌日無事にメンバーは揃い、そして壇上から音が振動となって床を伝わり体に響き心に届いたときの奇跡をママは今も覚えているよ。指揮の先生の晴れ晴れとした表情は美しかった。きっと心配だったんだろうなって。他人はどうってことなく聞き流していただろう。それぞれのチームにそれぞれのドラマとか思いがあるだろうけど、その隣のマイ楽器で譜面通り演奏し決められているかの様に入賞する小学校と対照的だった。村立と国立・・・・ふーんって初めてそのとき気づいた。ママは今更ながら自分自身と君を顧みた。良かったね、いろいろな人に囲まれて育って。
最高学年で転校したけどピアノは君を支えてくれていた。うまい訳じゃない。でもきちんと弾ける。卒業式のベスト・フレンドの演奏は君に自信をプレゼントしてくれた。君はショパンの傍ら、好きな曲を奏でるようになった。そういえば君に「手紙~拝啓15の君へ」CDをプレゼントしたっけ。
中学のクラス対抗の合唱コンクール。課題曲の「手紙」は合唱アレンジなのでオリジナルとイメージが異なる。自由曲のほうがピアノ賞を狙えるんじゃない?って余計な母親の言葉も無視して、持ち歌の「手紙」を選択した。昨年の様子から歌の実力も?で、一番の不安材料、皆やる気が無い・・・。君のオリジナル「手紙」で皆をびっくりさせちゃおうよ。左手を力強く弾く感じ・・アンジェラみたいに。自宅での練習中横からちょっかいを出すママは音楽は知らないけれど歌ごころと歌ぢからは大切にしている。
本番、君のクラスの「手紙」は素晴らしかった。下手だったけどもう一回聴きたい・・そう思えた。君の弾くピアノは情感ってやつが存在していた。もう子供ではないんだね。
いま負けそうで泣きそうで・・・この歳になってもおんなじ。そして自分とは何か・・・それも意外かもしれないがわからなくなる時がある。今を生きる・・自分を生きる・・・。君はどんな人生を歩むのだろう。
拝啓 ありがとう。50歳のあなたが幸せなことを願います。
宮城のウコン栽培のかたから丁寧に包装されたウコンのお花が届きました。100株に一本しかお花が咲かなかったそうです。春に訪問したときお花を見たいなぁと呟いたのを覚えてくださっていました。
お花が綺麗に咲くのは期間限定。そしてその出会いは一瞬。その一瞬の為に心をこめてくださる、その背景があってこそ、さらにこのウコンの美しさが際立ちます。
ウコン、クルクミン、ターメリック。どこかで聞き覚えがある単語ですが、食品、薬効成分で呼び方がかわります。最近は評価がさらに高まってきました。
ウコンのお花で心までも癒されそうです。気持ちのありかたは「アンチエイジング」にとても大切です。心の変調は生きていれば激しい振幅として耐えがたい事もあります。振幅によりそってくれるのは、いつの時代も「ひと・花・やさい」と、そして成熟した文化が伴えばお酒だったりもします。
仕事、生活のスピードそして正確さが要求される日々。「そんなのいいじゃない~」って思っても意外と許されなかったりします。メールの返信のタイミングで人間関係を推し量ってしまう自分が「変だな?」って思いませんか。反対に臆病になって自分にこもってしまったり・・。
道端にも素敵な癒しがあります。朝の散歩のときのショット。そして「われもこう」赤ワインの深みのある赤と同じです。・・・紅ありたくて花に問ふ。生きているから血潮は皆さん全ての人が赤です・・・・。
溢れている(ように見える)食材や物。本当に必要なものは限られています。
3年ぶりの高校生への食育。食事調査をしてから講義というスタイルは今回も同じ。教諭や食育実践者への講義は多いが、実際生徒に「教える」機会は限られている。
思えば3年前野菜ソムリエを名乗って高校生へ講義をしたことがある。食育はまだ歴史が浅く、テレビや新聞で報道された。実状は異なり教育現場への新参者は管理者からすれば「要警戒人物」。知り合いの保健体育の教諭が板ばさみになって苦い思い出となった。食事調査と講義後のアンケートだけはきちっと受け取ったのがせめてもの救い。郵便物で届いたアンケート結果の中に、保健体育の先生(長いお付き合いなのだが)から報酬が無くゴタゴタのお侘びにと、お札が同封されていた。その有難い気持ちと、生徒たちの評価の高さが、今までの自分の活動をささえている。
時はめぐり抗加齢医学を勉強してから食の講義は変化した。
食から個人の生きる背景が見えてくる。高校生は親の食の管理から離れ自分の好きなものを選択しはじめる。この期間にすでに指摘されている20台の食の問題点が始まっている様だ。地方でも存在するコンビニ。その地域の「ウリ」がエコとか癒しでも、食の問題や住民の健康は他の地域と変わらない。
3-4年前に「食育」周辺の業界が色めき立った。しかし現在どれだけの効果があがっているだろう。しかも大人たちの生活習慣病の状況は変わっていないのだ。特定検診もしかり。
自分の子供にはあまり食べさせたくない食を提供する食品メーカーの食育や、化学調味料の会社が行う「昆布や鰹節の味覚授業」が妙に思えるのは自分だけでは無いと思う。
企業のメンタルヘルスが問題となっている。金銭を投じても改善したいのは実情から理解できる。そちらが専門の先生とざっくばらんにお話したことがあるが、「一体何を治すのか」理解できなくなり「治してないじゃないですか」と反論してしまった。企業は困っているから金銭を投じる。
食をめぐる健康の問題は「困っている人」が少ない。食育がうまくいかなくても誰もせめられない。食事があきらかにメンタル・ヘルスに関与し「困った状態」になれば状況は変わる。自身は食の周辺とメンタル・ヘルスは関連があると思っているが、専門ではないので言及を避ける。
食という生きる手段の背景には地域づくりや国のあり方なども見えてくる。今日はそんなお話をさせて頂いた。途中瞬間的に居眠りする生徒もいたが、最後の視線の集中は生徒さんたちの生きていく力強さを大いに感じた。
その後、地域の食文化を牽引している企業の方と会談させていただいた。共通の思い、それで今日の報酬は十分ですし、明日からも活動を続けられそうな気がしました。本当にありがとうございました。